今まで父について書いたことってないんじゃないかと
思いますが、父について書いていこうと思います。
父は80代前半。元々は理科の先生でした。
婿養子だったのもあるかもしれませんが、
女ばかりのうちの家族の中では静かな方でした。
仕事をしていた時は、特に趣味とかもなかったので、
退職したら一気にボケるんじゃ・・・なんて心配して
いましたが、ところがどっこい、切り絵や墨絵を始めたら
めきめきと上達し、いろいろなコンクールで賞を取る
ようになりました


もともと、年賀状用にすっごい細かい木版画を手で彫ってたり
してたので、手先は器用だったと思うのですが。
そういえば習字も特に習っていなかったのに、賞状を書くのを
ちょこちょこ引き受けてきて書いたりもしていました。
父はすごく大変な人生を過ごしてきたそうです。
けっこう前に聞いたことなので、間違っているところが
あるかもしれませんがご容赦ください。
産まれたのは大きい農家で、10番目?11番目?の子供で、
上にお兄さんお姉さんがたくさんいました。
母親も、父親にとっては何番目かの妻だったそうです。
小学生になり、中学生になり、高校に行こうとしたところ、
親に「お前は勉強なんかする必要ないから、中学を
卒業したらうちで農業の手伝いをしなさい」と言われました。
当時だとそれが普通だったのかもしれません。
しかし父はあきらめず、「じゃあ農業高校に行かせてくれ、
それなら農業をやっていくのに役立つかもしれないから」
と親を説得し、なんとか高校だけは卒業させてもらいました。
でも高校を卒業すると、大学に行って勉強したくてたまらない。
親に話しましたが、もちろん却下。
それなら・・と、勘当同然で身一つで家を出ました。
向かった先は静岡県のみかん農家。どうやって知ったのか
わかりませんが、当時1番稼げる出稼ぎは、みかん農家に
住み込みで働くことだったそうです
ほんとですかね
とにかくそれを信じて、本当に静岡県のみかん農家に行き、
1年だったか2年だったか、住み込みで働いたそうです。
お金を貯めて、理科系の私立大学へ。
大学生になってからも、バイト三昧だったと思います。
たぶんサークル(サークルって当時もあったんですかね?)
とか、仲間と遊んだりとかもなく、勉強するかバイトかと
いう生活をしていただろうと思います。
そしていつしか、「中学校の先生になりたい」と思い始めた
ようです。
当時は、中学校の授業で「農業」というものがあり、
父は大学で「農業」の教員免許を取得しました。
教員採用試験にも受かり、無事に農業の先生になりました。
しかし、農業を教えること数年、突然中学校の「農業」の
授業がなくなってしまったそうです
その中学校だけではなく、全国的になくなったようです。
父も困りましたが、学校側も困ったはずです。
「農業の授業がなくなっちゃったから、辞めてください」
と言うわけにはいきません
学校側は父に、「申し訳ないけれど、農業の授業がなくなって
しまった以上、農業の先生としては続けてもらうことは
できません。できれば「理科」の教員免許を取り直して、
理科の先生になってもらえませんか?」と言いました。
さて、その頃はすでに母と結婚していて、姉も生まれている
ぐらいの時です。
父が調べたところ、もう1度どこかの大学の夜間部に入学し、
4年間通って卒業するしかない、と言うことがわかりました。
そして父は、日中は教員として働き、毎日授業が終わったら
電車に飛び乗って、都内の理科系私立大学に通うことになりました。

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思いますが、父について書いていこうと思います。
父は80代前半。元々は理科の先生でした。
婿養子だったのもあるかもしれませんが、
女ばかりのうちの家族の中では静かな方でした。
仕事をしていた時は、特に趣味とかもなかったので、
退職したら一気にボケるんじゃ・・・なんて心配して
いましたが、ところがどっこい、切り絵や墨絵を始めたら
めきめきと上達し、いろいろなコンクールで賞を取る
ようになりました



もともと、年賀状用にすっごい細かい木版画を手で彫ってたり
してたので、手先は器用だったと思うのですが。
そういえば習字も特に習っていなかったのに、賞状を書くのを
ちょこちょこ引き受けてきて書いたりもしていました。
父はすごく大変な人生を過ごしてきたそうです。
けっこう前に聞いたことなので、間違っているところが
あるかもしれませんがご容赦ください。
産まれたのは大きい農家で、10番目?11番目?の子供で、
上にお兄さんお姉さんがたくさんいました。
母親も、父親にとっては何番目かの妻だったそうです。
小学生になり、中学生になり、高校に行こうとしたところ、
親に「お前は勉強なんかする必要ないから、中学を
卒業したらうちで農業の手伝いをしなさい」と言われました。
当時だとそれが普通だったのかもしれません。
しかし父はあきらめず、「じゃあ農業高校に行かせてくれ、
それなら農業をやっていくのに役立つかもしれないから」
と親を説得し、なんとか高校だけは卒業させてもらいました。
でも高校を卒業すると、大学に行って勉強したくてたまらない。
親に話しましたが、もちろん却下。
それなら・・と、勘当同然で身一つで家を出ました。
向かった先は静岡県のみかん農家。どうやって知ったのか
わかりませんが、当時1番稼げる出稼ぎは、みかん農家に
住み込みで働くことだったそうです

ほんとですかね

とにかくそれを信じて、本当に静岡県のみかん農家に行き、
1年だったか2年だったか、住み込みで働いたそうです。
お金を貯めて、理科系の私立大学へ。
大学生になってからも、バイト三昧だったと思います。
たぶんサークル(サークルって当時もあったんですかね?)
とか、仲間と遊んだりとかもなく、勉強するかバイトかと
いう生活をしていただろうと思います。
そしていつしか、「中学校の先生になりたい」と思い始めた
ようです。
当時は、中学校の授業で「農業」というものがあり、
父は大学で「農業」の教員免許を取得しました。
教員採用試験にも受かり、無事に農業の先生になりました。
しかし、農業を教えること数年、突然中学校の「農業」の
授業がなくなってしまったそうです

その中学校だけではなく、全国的になくなったようです。
父も困りましたが、学校側も困ったはずです。
「農業の授業がなくなっちゃったから、辞めてください」
と言うわけにはいきません

学校側は父に、「申し訳ないけれど、農業の授業がなくなって
しまった以上、農業の先生としては続けてもらうことは
できません。できれば「理科」の教員免許を取り直して、
理科の先生になってもらえませんか?」と言いました。
さて、その頃はすでに母と結婚していて、姉も生まれている
ぐらいの時です。
父が調べたところ、もう1度どこかの大学の夜間部に入学し、
4年間通って卒業するしかない、と言うことがわかりました。
そして父は、日中は教員として働き、毎日授業が終わったら
電車に飛び乗って、都内の理科系私立大学に通うことになりました。
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